小説『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』

戦争が終わって12年も経ってから遺族に届けられた6通の遺書。

日本に帰る希望を捨てず仲間を励ましながらも、抑留中に命を落とした山本幡男の遺書は、厳しいソ連側の監視をかいくぐり、山本を慕う男たちによる驚くべき方法で日本に持ち帰られました。

敗戦後ソ連軍に捕われ、極寒の地で飢餓に苦しみながらも筆舌に尽くしがたい重労働に耐えたシベリア抑留者たちにとって、生きて日本に戻り遺書を届けることは生きる希望でもありました。

 

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小説のあらすじは?

1945年、日本が戦争に負けると、約60万人もの日本軍将兵、満蒙開拓青少年義勇軍、民間人がソ連軍の俘虜(捕虜)となりました。

満州の牡丹江収容所を経てスベルドロフスクの収容所(ラーゲリ)に到着した約1000人の日本人俘虜の中に山本幡男の姿はありました。

俘虜たちは1日10時間以上も土木作業をを中心とする作業をさせられており、その中でロシア語が堪能な山本は主に通訳として働いていました。

食事はひどいもので俘虜たちはいつもお腹を空かせていました。食べ物をめぐっての喧嘩や暴力などは日常茶飯事で、体力がない者は栄養失調で死んでいきました。

スベルドロフスクに来て半年、山本は松野輝彦に「勉強会をしよう」と提案しました。最初は5人で始まった勉強会。『万葉集』や仏教の話から祖国日本に帰る希望を改めて強く胸に刻んでいったのでした。

1948年9月、山本を含む俘虜約1000人が帰還(ダモイ)できることになりましたが、山本はハバロフスクの手前で列車から降ろされ、再びラーゲリに戻されました。

ハバロフスク地区のラーゲリ第18分所では、ソ連側に育てられた民主運動の活動家らによるリンチが横行しており、山本に対するリンチは目に余るものがありました。満鉄時代に特務機関員だった山本は、祖国ソ連へのスパイを働いていたというのが理由でした。

ソ連側は”帰還(ダモイ)”を餌に若い俘虜たちにマルクス・レーニン主義を叩きこみ「シベリア民主運動」を先導していきました。不幸にも同胞によるリンチで命を落としていった俘虜たちは「白樺の肥やし」として棄てるように処理されていきました。

その後、山本はハバロフスク市にある「地獄谷」と呼ばれる囚人ラーゲリを経て、ソ連邦矯正労働収容所第6分所に移され、火事で焼けた宿舎の片付けと新しい宿舎建設作業にこき使われることとなりました。

そんな中で山本は森田市雄新森貞と3人で、憲兵の目を盗んで休憩時間や夕食後に俳句を作るようになりました。

1950年、ソ連政府は「日本人俘虜の送還は完了した」と発表しました。残されているのは戦犯とその容疑者のみであるといいます。帰還(ダモイ)の希望は打ち砕かれ、絶望した人々の間には虚無的な空気が流れるようになっていきました。

山本らが21分所にへと移ると俳句を楽しむメンバーは少しずつ増えていって「アムール会」と名付けられました。句会の集まりはとげとげしい雰囲気のラーゲリの中でまるで別世界のように穏やかなものでした。

収容所長から文化部を作るようにと言われ、かつて満鉄調査部の調査室主査だった佐藤健雄は山本を推薦しました。文化部長を引き受けた山本は、ソ連の新聞各紙に目を通すと、日本語に訳して壁新聞を作っていきました。

月1,2度の映画鑑賞会も開かれるようになりました。上映されるのはロシア革命を賛美するものやソ連の英雄を描いた作品がほとんどでしたが、山本が同時通訳で軽妙なセリフに変換して娯楽映画に変えてみせていました。

山本は帰還(ダモイ)の希望を決して捨てず「生きておれば、かならず楽しいことがある」と仲間を励まし続けていました。

ラーゲリの監視も緩やかになってきた1951年、山本が文化部の部屋からこっそり持ち帰ったちびた鉛筆や紙を使って、野本主宰の「創作」山本主宰の「文芸」という同人誌が作られ小説やエッセイなども寄せられました。回覧されたあとは見つからないように処分されました。

県人会なるものも作られ、演劇や草野球なども楽しめるようになりました。脚本はソ連側の検閲を受ける必要がありましたが、人々を夢中にさせるに十分でした。草野球にはラーゲリで飼っていた犬のクロも参加して、みんなつかの間の自由を満喫していました。

1952年5月12日、日本から参議院議員の高良とみが日本人抑留者に会いたいとソ連側に申し入れ、ハバロフスクを訪れました。この訪問が契機になったのか、祖国日本との葉書による通信が許可されました。

「俘虜郵便」とスタンプが押された往復葉書を手渡され、ソ連人将校らの前でてみじかに書くよう強要されましたが、互いの安否もわからない抑留者と家族にとって、通信できることは画期的なことでした。

山本の妻・山本モミジは7年ぶりに夫の無事を知らせる葉書を受け取りました。

山本が出征したのは1944年のことでした。満州国新京の満鉄社宅に妻・モミジと母・マサト、義妹・たづ子、そして顕一、厚生、誠之、はるかの4人の子が残されました。

1945年6月ハルピンで面会した際、山本は「日本の敗戦ははっきりしている。なんとかお袋や子どもたちを連れて日本へ帰ってくれ」とモミジに頼んでいました。モミジは家財道具を売り払い、豆腐を売るなどしてギリギリの生活を続け、1年後ようやく故郷、島根県の隠岐島にたどり着いていました。

長男の顕一が松江高校に合格すると、モミジはつてを頼って松江の小学校に転任し、一家で松江に引っ越しました。「子どもたちの教育だけはくれぐれも頼む」と山本に言われたことをしっかり守って、夫の帰りを待っていました。

1952年8月2日。点呼の鐘が突然ラーゲリ内に鳴り響きました。4人の脱走者が出たとのことでした。ロシア語ができて体力もあり敏捷な4人の若者はシベリアに抑留されている日本人の名簿を携えて、数か月にわたる準備の末に脱出を決行したのです。

しかし計画はうまくいかず2日目には捕まってしまいました。ラーゲリの監視体制は一層強化されることとなってしまいました。ソ連側に密告する者たちが権力を持つようになり、野球や演劇も禁止されました。アムール句会は解散させられましたが、脱衣場や洗濯場で密かに続けられました。

日本から葉書の返事が届き始めると、ラーゲリ内はしばし明るい雰囲気に包まれました。山本の元にモミジからの返事が届いたのは、山本が最初の葉書を出してから半年以上たってからのことでした。

1953年3月5日スターリンが亡くなり、マレンコフ首相が着任すると、日本からの小包が許可されるようになりました。ノートや筆記具は没収されてしまいますが、故郷の食べ物や家族の写真は殊の外嬉しいものでした。

ダモイの日も近いかもしれないと、みんなの胸にほんの少し希望の光が灯りました。国連総会で捕虜問題が取り上げられるようになると、少しずつだけれどダモイが行われるようになっていきました。

この頃、山本はのどの痛みを訴えてラーゲリ内の病院での入院生活を余儀なくされていました。山本の病状は明らかに悪化の一途をたどっていきました。耳からおびただしい排膿があるものの「中耳炎」として片付けられ一切治療はされませんでした。

病床にいても山本の日本に対する思いは衰えず、枕元でアムール句会は続けられ「日本文化研究会」というものまで新しく発足しました。

モミジからは、顕一が東京大学の受験を希望しており、一家で大宮に転居したという便りが届きました。モミジは借金をしながらも「教育は一生の財産だから」という山本の願いを必死で守っていました。

1954年2月、仲間たちの請願書がようやく実を結び、山本は中央病院への転院が決まりました。ところが「すでに手遅れ」とのことで翌日にはラーゲリに戻されてしまいました。

山本の病名は「咽頭癌性肉腫」というものでした。耳からの排膿はさらに増え、咽頭の激痛にうめき、唾液も出なくなって、膨れ上がった首はこぶのようになっていました。

山本の俳号・北溟子から取った「北溟子後援会」なるものができ、仲間たちは「北溟子を生きて日本に帰そう」と、つきっきりで看病したり、危険を冒して卵や牛乳を手に入れては山本に食べさせたりしていました。

誰の目にも山本の再起が絶望的になってくると「遺書を書かせたらどうだろうか」という意見が出てきました。もうこれ以上は延ばせないと思った佐藤健雄は山本の病室を訪ね「万が一を考えて、奥さんやお子さんたちへ言い残すことがあれば書いておいてほしい…」と伝えました。

翌日夕方、佐藤が山本の元に行くと、ソ連製の薄いノートが手渡されました。遺書は全部で4通。「本文」「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」となっており、ノート15ページにわたって綴られていました。

1954年8月25日午後1時30分、山本は誰にも看取られず息を引きとりました。45歳でした。長男・顕一の東京大学合格の知らせが届いたのは亡くなったすぐ後のことでした。

その後、山本の遺書は仲間たちの生きる力となり、山本の死から2年以上も経って、驚くべき方法によって妻や子供たちに届けられることになります。

遺書が届けられた方法とは?

文字を書き残すことはスパイ行為として固く禁じられていたため、山本の遺書をそのまま日本に持ち帰るのは不可能なことでした。佐藤は山本と親しく信頼できる人物を数人選んで、4通の遺書を分担して暗記してもらうことにしました。

抜き打ち検査で山本のノートは全て没収されてしまい、密告者もどこにいるかわからない状態の中、仲間たちは衣類に書き写したものを縫い付けるなどして時間が許す限り暗誦し、山本の遺書を守り抜きました。

山本の叫びは、同じように祖国の土を踏むことなく亡くなっていった多くの仲間たちの声であり、子供等への遺書は新生日本の若者たちへのメッセージだと思えました。

1955年12月にはラーゲリの非人間的な扱いをモスクワの政府に訴えるためのストライキ、いわゆる「ハバロフスク事件」が起きました。

中央へ請願書を送り断食までしたが、ついには軍隊に包囲され、ストライキは100日間で制圧されることとなりました。それでも日本人代表たちがラーゲリでの悲惨な状況を訴え続け、労働条件の緩和や医療の改善、スパイ工作の廃止などに至りました。

そして生きて日本に帰って、山本の遺族に遺書を届けるという使命は、生き続ける支えとなっていきました。

1956年10月19日には日ソ共同宣言と通商議定書への調印が行われ、12月、最後の長期抑留者1025人が日本へと帰還しました。船上では189回目のアムール句会が開かれました。

1957年1月。山本モミジの元に最初の遺書が山村昌雄によって届けられました。それから10日ほどたって野本貞夫から、山本のラーゲリでの日々や詩や俳句を綴った手紙と一緒に2通目の遺書が届きました。

3番目には後藤孝敏による「子供等へ」が、4番目には森田市雄による「妻よ!」が封書で届けられ、5番目には瀬崎清が遺書とともに山本の墓を示した地図と墓番号が「45」であることを伝えにやってきました。

それから半年以上たって6番目の遺書が届きました。山本を慕い尊敬してやまなかった新見此助からの小包には、山本の直筆のメモや絵なども収められていました。

山本の死から2年余、ラーゲリからの遺書を運んできた男たちの戦後の再出発がようやく始まったのは、戦争が終わって12年も経ってからのことでした。

小説を読んだ感想

ロシア語を専攻しロシア文学に見せられた男が、シベリアに抑留されその地で眠ることとなるとは…なんとも皮肉な話です。

60万人以上いたと言われるシベリア抑留者。そのうちの7万人以上の人が故郷の土を踏むことなくシベリアで命を落としたと言われています。

戦争というのは、敵味方関係なく命が軽んじられ、理不尽がまかり通ってしまう恐ろしい空間です。誰もが考える力を失い、正しさの基準でさえも真逆に変わってしまうような時代。

見方を変えれば、それぞれの行動は自分の中にある正義に従っただけなのかもしれませんが、人々の間には殺伐とした空気しか流れなかったことでしょう。

日本に想いを馳せるために山本幡男さんが始めた『万葉集』の勉強会や『アムール句会』。極寒の地シベリアとは違って四季が存在する日本を語ることは、抑留者たちにとって色や匂いをも感じる癒しの時間でした。

死んでもなお「遺書を届けるために生きて帰る」と仲間の希望となり続けた遺書は、新しく歩み始める「日本」と「若者」に対する激励の手紙でした。

戦争を知らない私たちが、どれほど本を読んでも映像を見ても、当事者たちの辛さや苦しみを心底理解することは難しいと思いますが、未来に目を向けて新しい時代を作っていく心構えを受け取ることはできる気がします。

山本幡男さんの「子供等へ」という遺書は、現代の私たちが読んでも胸に響く言葉が溢れていました。

最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。

戦争だけでなく人間同士が関わり合っていく全ての行いに、この思いが込められればいいなぁと、心から願わずにはいられませんでした。

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