衝撃の問題作『護られなかった者たちへ』の続編とも言うべき宮城県警シリーズ第2弾。
東日本大震災の爪痕が未だ人々の生活に生々しく残っている2018年、事件を追うのは『護られなかった者たちへ』で事件を担当した笘篠です。
「ふだん作者の思いは込めないようにしている」と話す作者の中山七里さんが「祈りを込めました」という物語。
執筆した作品は書き終わるともう思い出さないようにしている中山七里さんが、今でも笘篠のことが気になったりするというくらい、強い祈りを込めて書かれた作品です。
決して忘れてはならない、風化させてはならない東日本大震災が残した心の傷。復興の闇と人々の祈りという相反するものが共存する世の中。
サスペンスというよりヒューマンドラマです。震災の被災者には最後まで読むのが辛くなるような物語ですが、私たちが決して忘れてはならない大事なものを教えてくれる物語です。
【5F文芸書売場】#中山七里 さん『境界線』(#NHK出版)宮城県警捜査一課を舞台に、東日本大震災による行方不明者と個人情報ビジネスという復興の闇を照らし出していく。震災によって引かれてしまった“境界線”に翻弄される人々の行く末は、果たして。 pic.twitter.com/f1XMlbXB9O
— 丸善名古屋本店 (@MARUZENNAGOYA) December 14, 2020
『境界線』を読む前に『護られなかった者たちへ』をぜひご一読くださいね。
小説『境界線』のあらすじ
2018年5月、気仙沼市の海岸。1人の女性の遺体が発見されます。宮城県警の笘篠誠一郎の元に連絡が入りました。女性が持っていた免許証の名前は「笘篠奈津美」、笘篠誠一郎の妻の名前です。
東日本大震災のとき、笘篠は業務に追われ、自分の家族を気遣う余裕がありませんでした。ようやく帰ってみると、あったはずの家も家族も姿を消してしまっていました。
自分を責め続け妻と息子に会えることを待ち望んできた7年間。恐怖と安堵、希望と絶望という様々な感情が入り乱れながら遺体と対面しました。その女性は妻ではありませんでした…。
女性の持っていた免許証は、名前も住所も生年月日もすべて奈津美のもので、顔だけが全く見ず知らずの別人でした。
女性の死因は市販薬による自殺、思想推定時刻は昨夜の10~12時。免許証は3Dプリンターによる偽造品でした。
スマホなどの重要な所持品は見当たらず、指紋からも歯科治療痕からも身元は割れず、1週間経ったある日、市民から「店で働いてる女の子じゃないか」という通報がありました。
女性はデリヘル嬢で、発見の前日には2人のお客を取っていました。最後の客はホテルの宿泊者名簿から「荻野雄一、45歳」と割れ、笘篠は仮設団地に住む荻野を訪ねました。
女性が気仙沼で生まれたことを話していたようですが、特に大きな収穫もなく聞き取りは終わりました。
もう1人の客はデリヘルへの申込もホテルの宿泊名簿も偽名でしたが、書いてあった電話番号が本物だったためにすぐに身元が割れました。
笘篠は仙台市に住む「枝野基衡」を訪ねました。女性の写真を見せると顔色を変え、家族の前では話せないとパトカーの中で話すことになりました。
枝野は気仙沼に出張した夜、デリヘルを頼みました。そこにやってきたのは偶然にも小中学校の同級生でした。名前は、鬼河内珠美。
中学時代、不良だった珠美はスクールカーストのトップに、枝野は底辺に位置しており、珠美からお金を巻き上げられたり虐げられたりしていました。
それが今では大企業に勤め家庭を持つ男とデリヘル嬢。枝野はいかに自分の生活が幸せかを述べたてた挙句、過去の事件について言及したと言います。
珠美の両親はリサイクルショップを経営しており、当時働いていた青年2人に暴行を働いて斬殺し世間を震撼させていました。両親はともに死刑判決を受け、珍しいその姓からその後の珠美の生活は困難の連続だったことが容易に想像できました。
知られたくない本当の名前と過去。デリヘル嬢として出向いたお客は同級生で、その事実をあざ笑うかのように見下してくるとなると、死にたくなった気持ちも自然な気がしました。
身元は割れましたが、奈津美の個人情報をどこでどうやって手に入れたのかは手がかりがない中、仙台市の公園内で男性の遺体が発見されました。
男は刺殺されたようでしたが、ブロックであごを叩き潰した上に10本の指が第一関節から切り取られていました。スマホなども見つかっておらず、明らかに身元を隠すことが目的と思われました。
それなのになぜか運転免許証と社員証は残されたままです。勤務先の人が到着し、遺体は間違いなく天野明彦だと証言しました。
免許証の変更前の住所にはには今でも家族が住んでいるようで、天野明彦の妻という女性がやってきました。そして、遺体の男性は夫ではないと言います。夫は東日本大震災で津波にさらわれ、今でも行方不明だと…。
笘篠は悪寒が止まりませんでした。妻と同じく、震災被害にあって行方不明になり「失踪宣告」の申し立てをされていない人はたくさんいます。
一縷の望みを託し残されている戸籍を、勝手に誰かに使われている…という事実は、身内や親しい人を亡くしたり未だ行方不明で見つからなかったりということを経験している東北人にとっては、他人事とは思えない重い出来事でした。
天野を騙っていた男の部屋からは指紋が1つも出ませんでした。指に瞬間接着剤を塗って、指紋を隠していた痕跡がありました。勤務態度は真面目でしたが、競馬にのめり込み常にお金がない生活を送っているようでした。
身元を知れるものが何も見つけられなかった鑑識は、風呂場に接着剤が置かれていたことから、男は風呂場で接着剤を塗り替えていたのではないかと読み、排水溝から出る汚物の中に被膜が残っているかもしれないと汚物採取に着手しました。
そしてついに小さな被膜を見つけ、男は前科のある真希竜弥だと分かりました。真希はコンビニ強盗で懲役9年の判決を受け、2015年に出所していました。
笘篠は保護司の久谷を訪ね、真希の出所後の足取りを調べ始めました。再犯ということもあり実家からは縁を切られ昔の友人とも疎遠になっていたとのこと。震災後は一般人でも仕事をなくした人が多い中で、前科者の就職はあるはずもありませんでした。真希は1週間で久谷の元からいなくなっていました。
宮城刑務所を訪ね、当時の刑務官に真希の様子や受刑者同志の関係を聞いても何も情報は得られず、笘篠は多賀城市の雑居ビルにある「エンパイア・リサーチ」という会社で”名簿屋”をしている五代良則を訪ねました。五代は詐欺罪で宮城刑務所に収監されていたことがあるので、何かのつながりがあるのではと思われました。
五代から確証を得るような情報は得られませんでしたが、個人情報というのは目的とする情報によって分類されることによって初めて価値が出てくることや、元となる情報は役所や税務署から漏洩してくることが多いことを臭わせていました。
宮城県内の官公庁はほとんどが「仙台リース」からパソコンをリースしています。「仙台リース」からハードディスクの廃棄を下請けしている会社の従業員が個人情報を流しているか、ハードディスクそのものを盗んで売りさばいているのではないかと、捜査が始められました。
鬼河内珠美の住んでいた場所が割れ、笘篠は家宅捜索に向かいました。地味な部屋に派手な洋服、ファッションとグルメの雑誌しかない部屋の中で、ゴミ箱にするために折られた紙の箱の中に明らかに雑誌の切り取りとは違う紙が混ざっており、笘篠は違和感を感じて広げてみました。
それはNPO法人【東日本大震災被災者キズナ会】のパンフレットの表紙でした。代表の鵠沼(くげぬま)駿の言葉にも見覚えがあります。笘篠はそのパンフレットを手にしたことがありました。
中学入学と同時に栃木に移り住み、両親の死刑が執行されている鬼河内珠美が、震災被災者の集まりに関心を示すことには違和感しか感じえませんでした。
そこへハードディスクの廃棄業者の従業員・溝井に任意同行を求めたという情報が入ります。名古屋の店に大量の中古ハードディスクを持ち込む常連で、市役所からの廃棄ハードディスクは相場の1.5倍で売れるため他のバイヤーに渡していたと供述しています。
鵠沼駿という名前を溝井にぶつけてみると効果はてきめんで、その名前を告げられたとたん溝井は固まりました。
笘篠は【キズナ会】の本部に出向いていきました。鵠沼は異変を察知して裏口から逃げており、【キズナ会】の事務所からは溝井から横流しされたと思しきハードディスクが数個見つかりました。
溝井の供述から金融関係のハードディスクは五代に流されていたことが分かり、笘篠は再び五代を訪ねましたが、五代は前日から行方知れずになっていました。
五代と鵠沼は県下でも底辺と言われている高校の同級生でした。卒業生には暴力団の準構成員などもいて、卒業時には入学した生徒の半数でも残っていれば御の字という高校で、五代は不良グループのリーダーでした。放課後にはカツアゲやクスリの売人など、暴力団準構成員のOBからの下請けのようなことをしています。
一方、鵠沼はそんな高校の中で真面目に勉強に取り組んでいてクラス委員も受けている、稀な生徒でした。五代のグループにカツアゲされたこともありました。
五代たちがいつものようにカツアゲをしていると、俺たちの縄張りを荒らすガキは許さないと本物のヤクザに目を付けられ、五代はみんなを逃がしてひとりボコボコにされました。腹部を刺され遠のいていく意識…。
目が覚めるとそこは病院で、隣のベッドには鵠沼が寝ていました。たまたま通りかかった鵠沼が、倒れている五代を見つけ救急車を呼んだこと、鵠沼からかなりの血が五代に輸血されたことなどを聞きましたが、お礼など言えるはずもありません。
退院してから五代は、鵠沼にかつてカツアゲして奪い取った5210円を返し、少しずつ話をするようになりました。
鵠沼と話しながら家までついて行った日、五代は鵠沼家の玄関先から出てくるスーツの男に見覚えがありました。ファイナンス会社の社員を騙っていますがその会社は暴力団のフロント企業で、男は能島というヤクザでした。
すぐに契約を断るように鵠沼の両親に進言して事なきを得ましたが、後日五代は能島たちにボコボコにのされて半死半生の目に遭いました。それを見た鵠沼は「悔しくないのか」と言い、ヤクザに仕返ししようと提案しました。
数か月後、五代は能島に平身低頭で謝りに行き、心を入れ替えた証として業務の実地研修をさせてほしいとお願いしました。五代が研修を始めて2日目。コンピュータの”2000年問題”についての対策をするという目的でシステムエンジニアの男が訪ねてきました。
2000年になったらシステムが暴走するかもしれないと世間を騒がせていた”2000年問題”は、ヤクザの世界とて例外ではありません。男が「費用は15000円、今すぐここでできる。」と言ったので、能島は二つ返事でお願いしました。
男の作業は30分ほどで完了しました。半信半疑で立ち上げたパソコンのデータを見てみると、日付は2ケタから4ケタの表示に変更されていました。
そして翌日。女性事務員が異変に気付きました。貸付の予定もないのに次々と他口座に振り込まれていき、7200万円あった残高は25万円ほどになってしまいました。
鵠沼は振り込まれたお金を、協力者に手数料を渡して残りは全額養護施設に寄付して、さっさと口座を解約してしまいました。
高校を卒業した五代は公認会計士を目指すために予備校に通い、鵠沼は大学へと進学していきました。
五代が公認会計士を目指したのは投資詐欺を働くためでした。最初の詐欺を働いてから10年後、五代は宮城刑務所に収容されていました。
そこで知り合った利根勝久という男は、なぜ刑務所にいるのか不思議なくらい真面目で人情に篤い男でした。五代は出所したら一緒に詐欺をしようと熱心に誘っていましたが、利根は全く興味がないようでした。
そんな中、東日本大震災が起こりました。皮肉なことに刑務所という場所は地震などではびくともしないくらい頑強に造られているうえに、自家発電も備蓄の食糧もあり、ほとんど被災とは無縁の空間でした。
それでも塀の外の家族や友人の安否だけは知るすべがありませんでした。
2013年5月、五代は刑期を終えて宮城刑務所を出所しました。役所に行って犠牲者の名簿を閲覧すると、そこには父親の名前がありました。鵠沼の名前は避難者名簿にも犠牲者名簿にも見つけられませんでした。
自分の家があったところに行ってみると、基礎だけをのこして更地になっていました。すぐに鵠沼の家があった場所にも行ってみましたが、同じことでした。
鵠沼と五代がそろって姿を消し捜査はなかなか進展しませんでしたが、鵠沼の事務所から押収したジャケットに、真希の顎を叩き潰したブロックに付いていたのと同じ土が付着していたことがわかりました。
【キズナ会】の事務の女性に聞いても、高校時代の同級生に聞いても、鵠沼は”真面目で物静かな人”という印象で、凶悪事件とどうしても結びつきません。
鵠沼の人生の途中で何があったのか?笘篠はかつて鵠沼の家があった場所に行ってみました。海に近いその町は一面の更地になっていました。
「石巻焼きそば」の移動販売車が目に留まり店主に話を聞いてみると、震災前からこの地区でお店を経営していたとのこと。鵠沼のことを聞いてみると覚えていました。
鵠沼家の隣に住んでいた古賀が復興公営住宅に住んでいると聞いて、話を聞きにいくことにしました。
両親が共働きで留守がちだったせいで、鵠沼は古賀を祖父ののように慕っていました。震災が起こった日、古賀は隣の鵠沼家に声をかけて高台の神社へ避難しました。そこで流されていく家屋から鵠沼の妻の悲鳴を確かに聞いたといいます。
しばらくして鵠沼駿が泥と血にまみれながら駆け付けました。両親が一緒に避難できなかったことを告げると鵠沼は力なくその場に膝を折り呆然としてしまいました。
そこへ女の子の悲鳴が聞こえてきました。濁流の中で赤いランドセルを背負った女の子が見え隠れしています。女の子を助けたいと踏み出した足元が崩れ、鵠沼の体が滑り落ちそうになりました。とっさにつかんだ腕を古賀は必死で引き上げました。
見ると流されている人間は一人だけではありません。「何もしてやれない」鵠沼の声は絶望と無力感でかすれていました。
鵠沼の両親の遺体はまもなく発見されました。遺体の安置所で会った鵠沼は、ぞっとするほど昏い目をしていました。「あの一件で、駿は家と家族だけじゃない、もっと大切なものを失くした気がする。」と古賀は語りました。
失踪した五代は必死で鵠沼を探していました。手がかりが全くない中突然ひらめいて、ある場所へ向かいました。鵠沼が初めて犯罪に手を染めた場所です。ヤクザから7000万円余りをかすめ取った場所…。
2人が話していると、そこに笘篠たち警察もやってきました。鵠沼は私文書偽造行使と殺人の容疑で逮捕されました。
取り調べの際の鵠沼は終始穏やかで、とても人を殺めるような人間には見えませんでした。笘篠には妻の戸籍を無断で拝借したことを詫びましたが、それ以外のことについては罪の意識はないと言い切りました。
真希を殺したのは「戸籍売買の件をばらされたくなければ5000万円寄こせ」と恐喝されたからでした。話し合いの場にナイフを出してきたのは真希で、もみ合って我に返ったときには真希を刺してしまった後でした。
戸籍の売買に至っては、行方不明者は実質死者と同じなので文句が出るはずもなく、本来の自分の名前では就職も生活もできない人間が生きる手段を得ることができ、行政側は死者であるはずの人間から税金を徴収でき、誰もが得をするビジネスだと言います。
人間の命なんて呆気ないもので、死んでしまえばただの物体でしかないという鵠沼は、時々海が見えると言いました。目の前で赤いランドセルの女の子だけじゃなく何人もの命を呑み込んだ海は真っ黒な色をしていた…、海といったら真っ黒な海しか思い浮かばないと言いました。
事件とは全く関係のない一言でしたが、ふとした瞬間に思い浮かべる海が同じように真っ黒な海の笘篠は二の句が継げませんでした。
鵠沼は仙台地検に送検されました。五代が金はいくらかかってもいいと私選弁護人を立てたようです。
笘篠は自宅で一枚の書類を前にしていました。失踪宣告申立書…。
妻・奈津美と息子・健一の情報を一字一字丁寧に埋めていきました。2人の死を受け入れる勇気がなく認めたくなかった…。しかしそのことで菜摘の名前を奪われることになってしまった…。
失踪宣告申立書と2人が写った写真を代わる代わる見つめながら、笘篠は誰もいないのをいいことに声を上げて泣きました。
小説の感想
『護られなかった者たちへ』を読んだ時もそうでしたが、読後感は「辛い」の一言。
もしかしたら本当に起こっているかもしれない怖ろしい出来事に打ちのめされるとともに、何もできないことに激しく無力感を感じます。
生者と死者、売る物と買う者、善と悪というように世の中にはさまざまな”境界線”が存在します。あることをきっかけに人が境界線のあっちとこっちに分かれてしまうこともあれば、境界線をまたいであっちからこっちにきてしまうことも。
同じ出来事を経験しても境界線を越えてしまう人もいれば、決して越えない人もいます。鵠沼の体験はもちろん凄まじいものですが、彼は決して越えてはいけない境界線を越えてしまいました。
災害が起こると必ずと言っていいほど起こる、避難して空き家になった家を狙う泥棒や詐欺事件。心にも経済的にも大きな傷を負った人々に追い打ちをかけるような行為にも怒りを覚えますが、誰も何も失っていないから勝手に名前を使っていいという理屈にも無性に腹立たしさと覚えます。
生まれ持った名前を捨てたいという事情も分からなくはないけれど、それとこれが同一線上で語られること自体がそもそもの間違いなのだと思います。
最後の場面で笘篠が、自分が妻と息子の死を受け入れることができなかったせいで妻の名前が奪われてしまったと、失踪宣告申立書を書く場面は胸がえぐられるような気持ちになりました。
何一つ罪悪感を感じる必要なんてないのに。
あー。中山七里さんの小説はほんと読むのが辛い…。でもまた次の本を手に取ってしまうんだけど…。
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