織田信長に侵攻され命からがら逃げ延びた匡介は飛田源斎と出会い穴太衆として生きる決心をした。源斎は「塞王」と呼ばれていた。
匡介は、戦の世を終わらせるためには決して崩れない石垣を造るしかないと考えていた。大津城の改修を任されると、城主である京極高次とその妻・初の人柄に惚れこんだ匡介は、自らの知恵と経験を結集して堅牢な石垣を築き上げた。
一方、国友衆の彦九郎はどんな石垣でも破ってしまう鉄砲や大砲を作ることに命を懸けていた。戦乱の世に終止符を打ちたいと願いを同じくする匡介と彦九郎の戦いが始まった。
天下分け目の関ケ原の戦いの裏側で繰り広げられた、誇り高き職人によるもう一つの戦いを見事に描ききった納得の166回直木賞受賞作!
「塞王」ってどういう意味?
石を扱う穴太衆(あのうしゅう)は石造りの神「道祖神」を信奉している。その中でも穴太衆が祀っているのは「塞の神」と呼ばれる神。
人が死んだときに訪れる三途の河の河原「賽の河原」を守る神とも言われている。
親に先立って死んだ子どもは、賽の河原で石の塔を積むことで親不孝の報いを受ける。しかし、いくらか石を積むとどこからか鬼が現れて塔を壊してしまう。
何度積み上げても壊されるが、諦めずに積み続けると神仏が現れて救ってくれると言われている。その神仏こそが「塞の神」であり、賽の河原の子どもらのことを想い、現世で石を積むのが仕事だと穴太衆の人々は信じているのだった。
穴太衆の祖は塞の神の加護を受けた「塞王」と呼ばれているが、今では穴太衆の中でも随一の技を持つ者を「塞王」と呼んでいる。
「穴太衆」とは?
穴太(あのう)とは現在の滋賀県大津市坂本穴太町にも残る地名です。この地域を拠点とした石垣造りの職人集団を穴太衆と言います。
戦国時代にはより堅牢な城造りが重視され、穴太衆は全国の大名に召し抱えられたと言われています。
コンクリートよりも強靭な石垣を造るその技術は口伝のみで一切文書では残されていません。
戦国時代の全盛期には何千人もいたと言われる穴太衆は現在ではかつての粟田家(現在の粟田建設)のみとなっているそうです。
小説『塞王の楯』のあらすじ
朝倉家が織田信長に侵攻されたとき、匡介(きょうすけ)は両親と妹の花代とともに一乗谷に逃げた。しかし、あっという間に一乗谷は地獄絵図と化し、朝倉家は滅ぼされた。
両親や花代ともはぐれたった一人で死に物狂いで逃げた匡介が出会ったのは飛田源斎(とびたげんさい)という穴太衆の男だった。
近江国(おうみのくに)穴太(あのう)には穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石垣造りを生業としている者たちがいる。
数ある穴太衆の中でも飛田(とびた)屋の技術は突出しており、飛田屋の頭である源斎は天才と言われ「塞王」とも呼ばれていた。
匡介が源斎に助け出されて23年の年月が流れ、今や30歳の匡介は源斎の跡継ぎとしての副頭と積方の小組頭を務めている。
石垣造りの仕事は、山から石を切り出す山方、石を運ぶ荷方、石を積み上げる積方の3つの技から成る。山方の小組頭は段蔵(だんぞう)、荷方の小組頭は玲次(れいじ)という。
豊臣秀吉から伏見城を移築せよとの命が下り源斎はそちらにかかることとなっった。そのため時を同じくして依頼された大津城の改修は匡介が行うことになった。
大津城の城主は戰下手の蛍大名と言われた京極高次。高次の妻・初の姉・茶々と高次の妹・竜子が秀吉の側室だったため、女性の七光で出世したと世間では揶揄されたていた。
大津の湊で、匡介は国友衆の彦九郎(げんくろう)と顔を合わせた。彦九郎は国友随一の称号「砲仙」と呼ばれる国友三落の跡を継ぐ者としてその名を知られている。
穴太衆が人々を守る石垣を造っているのに対して、国友衆は攻撃の要、鉄砲を作っている。いわば「楯」と「矛」の関係だ。
師匠である源斎と三落の因縁の間柄が、そのまま弟子の匡介と彦九郎にも続いている。
このまま泰平の世が続けば、穴太衆と国友衆が再び対峙することはないかもしれない。しかし彦九郎は、豊臣秀吉が死ねば再び戦乱の世が訪れると読んでいる。
長く続いた泰平の間に鉄砲がどれだけ進化しているか、匡介にはわからない。実際に戦で使われてみないと、それに対抗する石垣を造ることはできないのが穴太衆の現状だ。
泰平の世にあって城の縄張りもすでに世間で知られることとなった今、高次は飛田屋に城をさらに堅くすることを依頼した。
高次と直接話して匡介にはわかったことがあった。高次は戦下手などと謗りを受けているが、ただ家臣や領民を死なせたくないだけなのだ。
匡介は大津城をさらに堅牢な城とするために、空堀だった外堀に水を引き込むことにした。外堀に沿うように暗渠を造り、琵琶湖の水をこの暗渠を通して外堀に引き込む…うまくいくかどうかはわからないがやってみる価値はある。
暗渠を埋めるために外堀に沿って土が掘られることになった。この作業は領民たちも手伝って行われた。
高次の妻・初が作業の現場に訪れ、着物が汚れることも厭わず作業する衆に頭を下げた。また昼餉は初の侍女たちが運んできてくれるようになり、現場の士気はおのずと上がってくるようになった。
初の侍女・夏帆は、浅井家が滅亡した時と柴田勝家が賤ケ岳の戦いで敗れた時の2度「落城」を経験している。命からがら逃げ延びたとしても心に深い傷を負うことは、匡介にも痛いほどわかった。
外堀への水の引き入れも無事に完了し、飛田組は大津城を後にした。
秀吉が死んだとの知らせが全国を駆け巡ると、たちまち不穏な空気が流れ始めた。秀吉の家臣は真っ二つに分かれ対立していた。
徳川家康率いる東軍と石田三成が率いる西軍の対立が激しくなり、畿内は西軍一色に染まっていく中、伏見城には家康の軍勢が残っている。
源斎は「伏見城を落ちない城にしてほしい」という秀吉の遺言もあり、伏見城へと入っていった。
短期間で突貫で行う石積みを「懸(かかり)」という。戦が始まっても続行されるため職人も命懸けなのだ。飛田屋が最後の「懸」を行ったのは14年前。織田信長を討ち取った明智光秀にくだることを拒否した蒲生家の居城である日野城。
日野城では飛田屋が国友衆に勝利したような形になったが、10年余りの間におそらく鉄砲は想像もできないほど進化していると思われた。
源斎はその国友衆の鉄砲の技を全て出させてその目で確かめるつもりらしい。
4万とも見られる西軍に伏見城は落とされ、最後まで城に残っていた源斎は帰っては来なかったが、国友衆が雨の中でも打つことができる銃を作っていることが匡介の元には知らされた。
京極高次は一度は民を守るため東軍から西軍に一度は寝返ったものの、石田三成が大津まで東軍を引き付けて大津を戦場にしようとしていることを知ると、領民全てを城に入れて籠城することを決めた。
飛田屋には城を守るのを手伝ってほしいと連絡が入り、匡介は大津城へと急いだ。予定の半分の石しか運べなかったが、ついに開戦してしまった。
石積櫓を造りそこから射撃、爆撃を行うことで初日は京極家の優勢で終わった。
2日目、同じ手は使えない。日野城の懸で大敗を喫した甲賀衆が打倒飛田屋を掲げて攻撃を仕掛けてきた。石積櫓の中にはありったけの焙烙玉が詰めてあり、甲賀衆が石積櫓の狭間に銃を差し込んで発砲したことにより、石積櫓は大破した。
次々に焙烙玉は爆発し吹き飛んだ石で敵は壊滅状態へと陥った。
3日目の朝、敵は攻撃を仕掛けてはこなかった。その代わり竹束で作った楯を取り付けた車が鋤や鍬を持ったものを運んでくる。外堀に水を引きこんでいる暗渠を壊すつもりらしい。
玲次は次の戦いに備えて石を運んでくると、舟で大津城を出た。
翌日は雨が降る。国友衆が開発した雨でも撃てる銃が出てくるに違いない。匡介は敵の騎馬隊を足止めする策に出た。
三の丸に障子の桟のように腰高ほどの低い石積を造り、攻め入られた場合、徒歩で動く味方の兵は二の丸に収容できるが馬では容易に進むことはできなくした。
この策は功を奏したが、なんと敵は積んであった石を城外に運び始めた。石がなければ次の策が講じられない。万事休すだ。
その夜、玲次の船が石を積んで琵琶湖を大津城に向かって渡ってきた。船の周りに石垣を築き、穴から櫓を通してこぎ進んでくる。矢と銃で攻撃されても湖上を突き進み、3艘の船は大津城へと入っていった。
東軍と西軍の開戦は近いらしい。西軍は早く大津城を落として前線へと向かわなければならないと敵方は焦っている。
そして遂に国友衆が造った最新の大筒を使うことにした。長等山から大津城までは約10町(約1km)あるが「雷破」と呼ばれる大筒でなら正確に狙い撃つことができるという。
大筒から発射された弾丸は容赦なく天守を攻撃してきた。民はパニックに陥り逃げ出そうと城門へと押しかけた。匡介は門の内側に石垣を造り始めた。民からは罵声を浴びせられつつ、これが敵の戦略なのだと説明しても誰も聞く耳を持たなかった。
その時、大筒が門に集まる民を狙って撃たれた。匡介は母子を突き飛ばし意識を失った。
意識が戻った匡介は、かばった母子は無事であったが、その匡介を守って横山久内が亡くなったことを知らされた。
開城を半ば決意した高次を、匡介は説得した。城を守り抜こうと。1人も死なせたくないという高次の言葉に、民たちも納得したようだ。
敵は至近距離から天守を狙ってくると見て、伊予丸に石垣を築くことにした。
次々に打ち込まれる砲弾を受けて崩れる石垣を、飛田屋は次々と修復していく。夜になっても砲撃はやむことはなかった。
石を積むためのかがり火を狙い撃ちされなすすべがなくなったとき、勇気ある民たちが大量の松明とともにやってきた。なんとしても皆を守りたい…その思いだけが飛田屋を動かしていた。
要石が悲鳴を上げている声を匡介は初めて聞いた。要石が割れればもう石垣は積めない。
これまでにないほどの轟音が響き、弾丸が石垣に食い込んだ。そこには要石があり真っ二つに割れていた。時間の問題でこの石垣は崩れる。
そのとき天守から高次の声が聞こえた。「大津城を開城する」と。
その日、関ケ原で東西両軍による決戦が行われたが、大津城で足止めを食った西軍の毛利元康、小早川秀包、筑紫広門、立花宗茂の精鋭は間に合わず、東軍の勝利で終わった。
高次は死を覚悟していたが、その見事な戦いぶりに一命を許された。家康からは西国無双を足止めした功績により若狭国を与えられた。
後に聞いたところによると、要石をとらえた弾丸が「雷破」の最後の一弾であったらしい。火蓋が弾け飛びそれ以上の砲撃はできなくなっていたのだ。
京極家が復活するのを待って匡介は夏帆を妻に迎えることになった。彦九郎は大津城での戦いのあと、必ず戻ると言い残して旅に出たということだ。
方法は違えど、戦のない泰平の世を作りたいと願った匡介と彦九郎。矛と楯は人の心の象徴なのだと気づかされた。
『塞王の楯』の感想
守ることで泰平の世を築きたいと願った匡介と、最強の武器による抑止力で泰平の世を築きたいと願った彦九郎。天下分け目の戦いは、志を同じくする若者の戦いの場でもありました。
城主に見捨てられ命からがら逃げ延びた匡介と、弓の名手だった父が鉄砲の前にいとも容易く命を失った彦九郎。2人が望むのはともに戦のない平和な世の中です。それゆえに、戦いは絶対に避けられないものなのでした。
戦国時代と言えば武将にスポットが当てられる物語が多い中、穴太衆という職人目線で語られる物語は、とても熱く新鮮なものでした。関ヶ原の戦いという天下分け目の大戦の裏側に、こんなにも熱い職人たちの戦が繰り広げられていたとは!
そして、匡介はもちろんのことですが、段蔵や玲次、京極高次夫妻など登場人物が実に人間味のあふれる魅力的な人たちばかりで、かなりの分厚い本であるにも関わらず一気読みしてしまうくらい引きこまれました。
500年もつ石垣が造れるようになって一人前と言われる決して自分の目で確かめることができない石垣と、目の前の命を守りたいただ一心で積み上げられる石垣。どちらも職人の魂がこもっている一級の仕事であることに変わりありません。
この物語、絶対に映画で見てみたい!
時代物はロケにしてもCGにしても、途方もない時間と労力がかかるのはわかりきったこと。その上、石を積む作業まで加わるとなると実写化は半端じゃない作業になりますね。何年でも待ちます!
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